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zoom RSS この世界のほとんどの人は「与えられる」ことだけを待っている (魂が自分の火を起こす方法について)

<<   作成日時 : 2014/08/06 15:11   >>

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ドン・ミゲル・ルイス〜『飼いならされた人間からの脱出』

(字幕文字が小さいので画面を拡大してご覧ください)

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転載元:zeraniumのブログさんより

この世界のほとんどの人は「与えられる」ことだけを待っている

   我々全員が学ぶべき大切な教訓は、真の幸福とは、他者が自分を愛するかどうかで決まるのではなく、自分が自分自身を愛せるかどうかによるということだ。だから幸せになりたければ、何がなんでも他者が自分を愛してくれるのをがむしゃらに求めることをやめ、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなければならない。

   他人からの賞賛や慈しみや、成功や認められることを得ることでは絶対に幸せになることはできない。もし自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるのなら、その不幸の原因を外部に探さないことである。なぜなら原因は外にあるのではなく、それを生み出した自分の中にあるからだ。外を探している限り、満ち足りることはあり得ない。他人のおこした火で暖まろうとしてはいけない。他者があなたのために、してくれたりしてくれなかったりすることに振り回されていないで、自らの炎を起こしなさい。内なる虚無感を満たす唯一の方法は、無条件に愛することにある。

   あなた方の世界に起きている天秤の傾きについて述べてみよう。
   全人類を巨大な広場に集めて、愛を分配することにしたとしよう。まず、「愛が欲しい人はいますか」と聞く。すると100%すべての人が、「私だ、私だ。それは私だ。私が最も必要としている」と訴えながら手を挙げるだろう。そして次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場からはたちまち人がいなくなり、手を挙げようと残る人はわずかなものだろう。

   つまり分け与えることができるものは、ほんの少数の者が与える愛だけなのだ。
   これがあなた方人類に起きていることである。ほとんどの者は愛を受け取ることしか考えてはおらず、世界を支えているのはこのわずかな者の愛なのだ。しかもほとんどの者は、実際には愛を受け取っているのではなく、そのほとんどは自分のエゴを満足させているだけに過ぎない。

   我々は主体性に欠けており、愛が外からやって来るのを待っている。
   外からやって来る愛が、まるで魔法のように自分を幸せにしてくれれば、自分では何もする必要がないと思い込んでいる。必要なものを受け取ることだけで、常に受身であり続ける。

   しかしエゴを克服しようと努めない限り、すべてを与えてあなたを愛してくれる存在が現れても、「まだ足りない。私はまだ幸せではない。もっと愛して欲しい」と言うだろう。自分の内面的な虚しさは外からは満たされないので、もっと、もっと、と要求する。人から与えられたものを評価することは決してなく、もらっていないものばかりにこだわる。これまでの人生のどんな些細な障害であろうと、そのすべてが不平の口実となる。

Q、 では魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか?

   自分の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。
   そうしたことが行なわれる場は、通常、家族や結婚生活においてである。多くの場合、他者が自分に尽くすのに慣れきっている進化の遅い魂は、自分に与えられているものを自覚することができず、依然として要求し続け、ついには失う羽目になる。その時になって始めて、自分に与えられていたものを評価できなかったことを自覚し、認識し始める。そこで自分を愛してくれた人たちに対する最初の感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。
   

   要求ばかりしていた魂は、その後の転生では、自分よりも進化の劣った者たちと身近に共存する体験の中に置かれ、自分が過去に他者に求めたのと同じように要求される体験をする。こうして他人からの利己的な行為の中に、同じような自分のエゴを認識させられ、自分自身と向き合うことになる。この学びは、愛の受け手または送り手という、転生ごとにその役割を交代しながら、数え切れないほど継続する関係となることがある。送り手として与えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。愛の道を行くのか、それともエゴの道を続けるのかは、魂の意志次第である。

   すでに述べたが、繰り返しておこう。
   あなた方は独りではないのだ。我々は1人残らず誰もが、神から守護霊から、その他無数の霊的な存在や友人、また肉体の有無を問わず、霊的な家族から深く愛されているものである。しかもそれだけではない。つまりあなた方1人1人には、魂の伴侶であるツインソウル(双子の魂)が存在しており、それを介して純粋な無条件の愛の目覚めを体験する。ただそのことを自覚すればいいだけなのだ。

   たとえ自分を傷つけた恩知らずであっても、許すことを学ばねばならない。
   プライドの高い者は、そういうことにまだ気づいていない者を理解する力があるので、かつては自分も同じ状態にあったことを認識しなければならない。同時に本来の自分自身になる恐れを手放さなくてはならない。口では愛していると言いながら、従わせたいだけの人が仕掛けた罠からは自由にならねばならないが、苦しみを怖れて人間関係で孤立するのも良くない。

   愛して欲しいと望むのは悪くはないが、それぞれの愛の能力は同じではないと知っておかねばならない。つまり親子であるとか家族である、一緒に暮らしているからという理由だけで、相手に自分と同じだけの強さで愛したり、尊重してくれるように要求してはならない。

   愛が与えられない場合、より責任が重いのはどちらだろうか?
   愛することを知らずに愛さない者(虚栄心の強い人)か、それとも愛せるのに欠点のためにそうしない者(自尊心の強い人)だろうか?

   自己の自由意志を放棄してしまうことになるのであれば、他者を喜ばせるために過大な努力をしないことも大切である。まだ目覚めていない相手の感情を覚醒できると信じて、報われないのに過剰な努力をすると、いずれ失望や悲しみ、幻滅や苦々しさ、怒りや無力感といった形のつけを払うことになる。

   すでに述べたが、真の愛とは、何の見返りも期待せずに無条件に与えるものであるが、同じく、それをお返しする気のない人やまったく与えることのできない人に、愛を与えるように強要することもできないのだ。

   悲しみや虚しさを感じる時には、自分に閉じこもらないようにしなさい。
   感じることから逃げることが出来れば苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、それは解消できない不毛な苦悩となる。考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分の気持ちに従うことである。他者のせいで苦しんでいると思っていても、実際には独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

Q、 たとえば、ある人ともめている時、相手がその人自身のエゴで苦しんでいるのか、それとも私の利己的な態度が苦しめているのか、どうやって見分けられるでしょうか?

   相手の立場になり、自分が相手ならどう感じるだろうか、その状況でどうして欲しいだろうかと分析してみるとよい。自分が相手に行なおうとしていた行為が、自分がそれを受ける立場になれば変化するのであれば、あなたの態度に何らかの利己心や不公正な部分があったということである。行なう側としても、それを受ける側であっても同じ姿勢でいられるのならば、あなたの判断は公正に近い。

   しかしほとんどの場合、そうしたケースはさまざまである。
   つまり両者に利己的な部分があり、双方が自分のエゴを改めねばならないが、エゴでなければ確固とした態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。だが最終的には、「自分のして欲しくないことは、他者にもしてはならない」ことと、「苦悩の原因、意志の侵害だと知っていることを、他者が自分や自分の庇護の下にある者にしないように尽くす」という金言に要約できるだろう。

Q、 よく理解できるように、例を用いて説明してください。

   よろしい。
   教育の一環として子供を叩く母親を想像してみよう。そうした、子どもに与える肉体的、精神的苦痛を考えない母親によると、それは子供を従わせる方法だそうだ。もしその母親がその方針を正しいと信じているのであれば、自分が夫から殴られることも問題なく容認できるということなので、彼女が子どもに使ったのと同じ理屈を夫が持ち出して正当化しても、納得できるはずだ。だが誰でも叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、夫が自分を殴り続けることに当然同意しないだろう。

   この母親は、自分が夫に殴られて痛いのであれば、自分が子どもにそうする時にも、子どもも同じく痛いだろうと気づくべきだ。もしこうした現実から学ぶ気があればの話だが、そうした行為自体が悪いことだという結論に至るはずである。

   この女性には、どのような解決策があるだろうか?
   まず子どもに対する暴力の行使を放棄しなければならない。そうすれば自分のエゴを克服し、力づくで他人や弱者の意志を曲げようと懸命になることなく、同時に自分の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配を逃れることに力を尽くせる。攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのは、それは相手に苦しめられているのではなく、他者の意志を力づくで曲げ、自分の思うようにしたいというエゴを放棄するのが嫌なだけなのだ。

   相手を喜ばせてあげればればあげるほど、愛していると考えるのは大きな間違いであり、多くの善意ある者が陥る大きな「罠」である。愛している人には、その人を喜ばせる以前に、まず援助し、理解し、尊重しなければならない。喜ばせることと援助することの違いを知っておくのは大切なことである。なぜなら、支援の代わりに相手の機嫌を取ることで弊害を与えてしまい、結局、喜ばせたのは相手のエゴだけだったということもあるからだ。しかも自分の自由を犠牲に、相手のエゴに自分の意志を服従させて機嫌をとる時は、実は自分自身を犠牲にしているのだ。

   自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、慰めて喜ばせるだけで助けるのでないならば、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の魂の成長の停滞を助長することになる。真の援助というものは、その人自身が試練や状況を解決できるように、支えて励まし、前進できるようにしてあげることなのだ。

book 『魂の法則』 ヴィンセント・ギリェム著  ナチュラルスピリット
抜粋



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