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zoom RSS 7つのチャクラ・魂を生きる階段

<<   作成日時 : 2014/04/20 01:47   >>

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Vaststillness:アセンションと五次元世界


以下、転載元:2012年の黙示録さんより

7つのチャクラ・魂を生きる階段

  人生は、ときとしてつらいこともある。しかし霊的に見れば、私たちは、人生で体験する痛みにきちんと直面するようになっている。欧米では、神が人間のためにつくった計画が誤解されており、人生は快適で何の問題もないことが当然と考えられている。神の存在の有無を、人生の快適度で測ってしまうのだ。だが、神でも仏でも、あるいはどんな霊的な指導者であっても、痛みのない人生など保証してはいないし、それがいいとすすめてもいない。霊の道の教えは、苦しい体験ひとつひとつが霊的な学びであり、あらゆる体験の裏に隠された学びに気づく助けにもなってくれるのだ。

 第1の法則 ―― 体は人生の履歴書

  うつ状態というのも、調子が悪いことを示す症状だ。臨床医学の世界では、うつ状態というのは一般に感情的、精神的な障害とみなされている。だが長期にわたるうつ状態が、身体の病気の前ぶれということもよくある。
  「気」の観点からいうなら、うつ状態というのは、文字どおり無意識のうちに「気」が失われていく、ということだ。「気」という言葉を、「生命力」と置き換えてもいいだろう。エネルギーがお金のようなものだとしたら、うつ状態とは、財布を開けて、「好きなだけ金をもっていっていい。どう使われようとかまわない」と宣言するようなものだ。
  長期間のうつ状態は、間違いなく慢性的な疲労を引き起こす。誰がどれだけ自分の金を使おうと気にしなければ、誰でも間違いなく一文なしになるだろう。それとまったく同じように、「気」がなければ健康を保つこともできない。

  誰でもネガティブな感情はもっているが、そのすべてが病気を引き起こすわけではない。病気になるのは、ネガティブな感情が支配的な力をもつときだ。

  病気なった人や自分を責めてはいけない。人が意識的に病気をつくり出すことはまずない。「自分がとっているのは身体に有毒な行動パターンや態度だ」と気づかないでいる結果として、病気は発生するのだ。病気になり、自分の態度を見直すことを余儀なくされてはじめて、私たちは日常の恐れや反感に満ちた態度が、実は身体に悪い物質だと悟る。
  「気」とは力である。つらかった出来事をいつまでも思い出しつづけてエネルギーを過去に送っていると、いまという瞬間に存在する身体から力が漏れ、それが病気につながることもあり得る。

 第2の法則 ―― 健康でいるためには内面の力が欠かせない

  第1の法則、身体は人生の履歴ということと、第2の法則、健康でいるためには内面の力がいるということを、まとめて考えてみよう。
  力は私たちの内面の世界と外界との仲介役を果たし、その際に神話的な言語と象徴でコミュニケーションを行なう。たとえば、いちばんわかりやすい力の象徴であるお金のことを考えてほしい。お金を力の象徴として自己の内面に取り入れると、お金を稼ぎ、支配することがその人の健康を象徴するようになる。
  お金を稼ぐと、その人の身体は、体内に力が入ってきたという信号を受けとる。「自分にはお金がある、だから安全だ、安心できる。自分には力があるし、これですべてはうまくいく」という無意識のメッセージを心が伝達する。身体に伝達されるこの肯定的なメッセージが、健康をつくり出すのだ。もちろん、お金をたくさん稼いでも、健康が保証されるわけではないが、貧困、無力感、それに病気は、間違いなくつながっている。お金を稼げなくなったり、突然お金を失ったりすると、身体が弱くなることもある。

 第3の法則――自分の癒しを助けられるのは自分だけ

  「気」の医学はこう教えている。
  「自分の健康をつくり出す責任は自分にある。ということは、あるレベルでは自分が病気の発現にもかかわっている。自分を癒すことで、病の癒しにかかわることができる。それは、感情的、心理的、肉体的、そして霊的な存在として自分を同時に癒すことを意味している」
  「癒す」と「治す」は同じではない。「治す」というのは病気の身体的な進行をコントロールできた、あるいは抑えられた、ということだ。身体の病気が治っても、もともと病気の一部であった感情的、心理的なストレスが軽減されたとはかぎらない。病気が再発する可能性も十分ある。
  「治す」というプロセスは受動的だ。患者は医師に処方される治療処置に、自分をいかようにしてもいいという権限を与えてしまう傾向がある。これに対し「癒し」とは、自分から取り組む積極的な内面のプロセスである。これまでのものの見方や記憶、信念などを見直し、自分が感情的、霊的に百パーセント回復する妨げになる否定的なパターンをすべて手放したいと欲することだ。

 象徴的なものの見方を学ぶ

  人生で直面する困難から、何か意味を見出すことだ。自分の健康にそれがどういうつながりをもっているか考え、感じとってみる。

  誰が、ということよりも、何が自分から力を奪っているのか問いかけることではじまる。気を奪っている人間とは、実は自分のなかのある部分の反映にすぎないと理解しなくてはならない。
  たとえば誰かに嫉妬しているとしたら、あなたにとっての問題はその人ではなく、その人に反映された自分の影なのだ。嫉妬している対象の人に焦点を合わせても、自分を癒すことにはならない。次から次へと同じことを教える「教師」が送られてくるだけであり、新しい教師は前の教師よりも強烈になっていくことだろう。
  あなたの課題とは、その教師に反感を持つことではなく、教えられるレッスンを学び取ることなのだ。

  人生は本質的に学びの体験だ。すべての状況、人間関係、難題には、自分で学ぶか、あるいは人に教える価値のあるメッセージが隠されている。

  すべての状況において、肯定的なエネルギーは否定的なエネルギーよりも効果的に働く。

  「いま」という瞬間に生きること。そして、まわりへの許しの心を実践すること。

 7つのチャクラの象徴的な力

  チャクラの体系は、人間の成熟の過程に見られる7つの明確な段階を、元型(アーキタイプ)として描写したものだ。
  チャクラは人間の身体の脊椎の基底から頭頂まで、縦一直線に並んでいるが、これは私たちが物質世界の誘惑を徐々に克服することによって、神性へと昇華していく過程を暗示している。チャクラにある学びをマスターしていくにつれ、人は力について、また自己についての知識を得て、それが自分の霊に統合されていき、高次の霊的意識に向かう道を一歩前進することができるのである。

 第1のチャクラ  物質世界についての学び

 第2のチャクラ  セクシュアリティ、仕事、物欲についての学び

 第3のチャクラ  自我、人格、それに自己敬愛についての学び

 第4のチャクラ  愛、許し、慈しみについての学び

 第5のチャクラ  意志、自己表現についての学び

 第6のチャクラ  知性、直観、洞察、叡智についての学び

 第7のチャクラ  霊性についての学び

 7つのチャクラと7つの聖なる真理との共通性

  私たちの身体系にある7つの力の中心点には、それぞれ、7つの聖なる真理のうちのひとつが内包されている。この真理は、内面で脈動を続け、その力の適切な使い方に沿って生きていくよう、私たちを導こうとする。私たちは、この7つの真理に関する知識が気系のなかに織り込まれた状態で生まれてくるのだ。これらの真理をないがしろにすると霊と身体の両方を弱体化させ、逆に尊ぶと、霊と身体を強化してくれる。
  エネルギーとは力であり、身体はエネルギーを必要としている。つまり身体は力を必要とする。チャクラや、キリスト教の7つの聖典は、力との交わりについて語っている。
  たとえば、最初のレペルでは、まず私たちは、集団のなかでのアイデンティティ、そして家族のなかにある力をもつことに、どう対処するかを学ぶ。あとのレベルでは、一個の成人として、力を個性化し、コントロールすることを学んでいくのだ。そして、心、思考、さらに霊をコントロールする術をだんだんと学んでいく。あらゆる選択は、信頼、あるいは恐れによって動機づけられ、霊にひとつの方向性を与える。
  ある人の霊が恐れによって動かされているとしたら、恐れが気場と身体に戻ってくるのだ。逆に、信頼によって霊を方向づけてやれば、慈しみが気場に戻り、生体系は嬉々として健康な状態を続けられる。洋の東西を問わず、どの教えをとっても、恐れや否定的な感情を通して自分の霊を物質界に解き放つことは、天意を無視し、利己的な意志を優先する、信心なき行為であるとしている。
  東洋の教えでいう、すべての行ないはカルマをつくり出すということだ。覚醒した行為は良いカルマをつくり出す。恐れや否定的な行動は悪いカルマをつくり出す。そうすると、その否定的な行為の動機となった恐れから、自分の霊を「取り戻して」こなければならない。

  私たちは、同時に物質と霊の両方の存在である。自分を理解し、身体と霊の両面で健康を保つためには、物質と霊がどういうかたちでかかわりあうのか、身体から霊や生命力を吸い取ってしまうものは何か、そして、恐れ、怒り、過去への執着などの「ニセものの神」から自分の霊をよび戻すにはどうすればよいのかを理解しなければならない。

  チャクラ体系ではそれぞれの気の中心には、特定の力が内在する。これらの力は、もっとも比重の重い物理的なものから、もっともエーテル的な、あるいは霊的な力へと上昇していく。驚くべきことに、私たちが人生で直面する試練も、これと同じ順で起きていく傾向にある。

 選択とは創造することのプロセス

  第2チャクラの気は、同族という集団の気を越えて成長していく助けとなってくれる。選択は、対立するふたつの極があるからこそ生まれてくるのであり、第2チャクラの二面性は、プラスとマイナスの気のパターンの相反する極がつくる世界で選択を続けていくという、永遠の課題を投げかけている。すべての選択は、私たちの気の微細な電流を宇宙に放つ。そして宇宙は、気の放つ微細な電流に反応するのだ。

  私たちの行なう選択が、私たちの霊を物質へと織りなしていくという事実こそ、世界の主だった霊的な教えが、基本的にただひとつのレッスンを中心に形成されている理由でもある。それは、賢い選択をしなさい、ということだ。
  なぜなら、ひとつひとつの選択は、自分の霊の力を創造的に行使することにほかならず、その責任も自分でとらなければならないからである。さらに、信念をもって行なわれた選択は、そこに天の力がフルに加わることになる。だからこそ、「けし粒ほどの信念が、山をも動かす」ことができるのだ。逆に、恐れから行なわれる選択は、信じる心の気を侵害することになる。
  だが、選択には神秘的な一面もある。というのは、自分の選択のもたらす結果をすべて知ることはけっしてできないからだ。

  逆説的なのは、第2チャクラの気が、人生をコントロールしようという方向に私たちを向かわせるのに対し、第2チャクラから得るべき学びとは、何もコントロールすることなどできない、という点であるということだ。私たちは物理的な存在であると同時に、気の存在だ。物理的な世界をコントロールすることはできないのだから、私たちの目前にある課題とは、外面の世界に対する私たちの内面の反応をコントロールできるようにする、ということになる。つまり、思考や感情である。
  そうはいうものの、誰もが自分の人生をコントロールしようとして、結局は失望するという、終わりがないように思えるサイクルのなかでもがく。すべてに完璧な秩序をもたらし、あらゆる変化の動きを止めて、すべての人びと、すべてのものごとに対する最終的なコントロールを可能にしてくれるような一大選択を私たちは求めつづけていく。
  それは仕事? それとも完璧な結婚相手? あるいは住む場所なのか? この、ただひとつの選択をつねに探し求めることで、私たちは、本来は人生そのものの姿であるはずの、変化するリズムというものに対する恐れに実体を与え、それを現実の存在にしてしまう。永遠のやすらぎ、安定、愛、そして健康をもたらしてくれるはずの、どこかに存在するひとりの人間、あるいは何かひとつのものを探し求めるなかで、私たちは「目の前にある外面の世界ではなく、内面にある本当の力」を取るに足らないものとして見過ごす。
  二面性をもつ矛盾した本質のなかにある真理とは、こういうことだ――大切なのは何を選ぶかではない。結果に影響を与える力は、ある選択をした理由のほうに存在する。
  第2チャクラの課題は、私たちがある選択をするときに、何がそうさせるのかという動機を学ぶことである。動機を学ぶなかで、私たちは自分の霊の中身についても学ぶことができる。あなたは恐れで満たされているのか、信ずる心でか。私たちの選択は、すべてこの信ずる心、あるいは恐れのどちらかの気をもっており、選択の結果もまた、ある程度そのどちらかを反映する。この選択のプロセスのはたらきで、自分からも、自分の下した決定からも、私たちは逃げられないようになっているのだ。

  悪い行為や否定的な思いは、恐れにその源がある。たとえば、裏切られるかもしれないという恐れ、人との関係のなかで自分の尊厳を侵される恐れや、金銭をだまし取られるのではないかという恐れが力をもつかぎり、その力の強さが、否定的な方向に向かう行為の「量」を決定することになる。肯定的、否定的に関係なく、何かを信じるということは、必ず何らかの結果を生み出す。信心の対象を恐れに置くことは、破壊的な結果をもたらし、それはまず、自信をもって外部の世界と関係をもつ能力が崩れていくことからはじまる。
  恐れに動かされると、私たちは、セックス、権力などのニセ物の神や、それが象徴するものにたやすく誘惑されるようになる。いったんその誘惑にはまってしまうと、私たちは自分の手にあるはずの力を放棄し、それを誘惑の対象へと手渡してしまう。たとえば、すでにうまくいかなくなっている個人的な関係、お金や安定を与えてくれるはずの外部の世界に存在する何か、忘却のなかにやすらぎを見出してしかるべきなのに、繰り返し思い出してしまう過去の体験、あるいは麻薬やアルコール中毒などだ。恐れのささやく声に操られ、人は明晰な思考や行動ができなくなってしまう。

 お金のために気を売り渡していないか

  お金は、気と同じく中立の物質であり、使う個人の意図に従う。お金が持つさらに興味深い一面は、それが生命力の代わりとして人間の精神に織り込まれることがあるという事実だ。これは無意識に行なわれることが多いが、お金を生命の気と同一視してしまうと、ふつうその結果は悪いものとなる。というのは、人が使うお金はすべて、無意識レベルでの気の支出でもあるからだ。お金の不足は、気の不足につながる。これも無意識に起きることだ。
  お金を生命力と誤って解釈したうえ、さらに突然お金を失う事態に直面すると、それが病気の引き金となることがある。たとえば、前立腺ガン、性的不能、子宮内膜症や卵巣の問題、腰痛や座骨神経痛などだ。つまり、お金は性的な力と同一視されるようになっているのだ。
  誰でも精神の内面で、ある程度はお金と生命力を一緒に考えている。もちろん、本質的には別の存在である。しかし、できることなら、別々でありながらも、容易に、しかも自然に、自分の気にお金が引き寄せられてくるような関係をつくることが私たちの課題だ。
  お金との関係が親密でなく、非個人的であればあるほど、必要に応じてそのエネルギーを人生のなかに引き寄せてくることができる確率も高まる。
  象徴の世界、気の世界でも、お金が相当な影響力をもっていることは疑いの余地がない。「口だけでなく、金も出さなくてはならない」とか、「口で言うのはたやすい。本当にものを言うのは金だ」といったような言いまわしは、お金をどうするかのほうが、ただ口で語る意図よりも、その人の本当の動機についてずっと多くを語るという、私たちの文化の視点を示している。

  お金はまた、私たちが自分の個人的な信念や目標などを公にする手段でもある。気は行動に先立って存在するものであり、私たちの持つ意図が、結果にかなり影響する。
  お金についての信念は、霊の道についての考え方やその実践にも影響を与える。神は、良い行ないをしようとした者に金銭的にも報いるという信念は非常に強く、慈善行為などが、自分を確実に貧困から守ってくれるという信念も同様だ。この種の信念はほかにもたくさんあるが、すべてそれは、神が金銭を通して意志を伝えているのであり、反対に私たちも金銭を通じた行動で神と意志を伝え合っているのだという、さらに大きなレベルの見方を反映しているのである。
  このよぅな信念が、真実に基づくものなのか、あるいは一種の神話なのかは、この際無関係だ。信じていないよりも信じている部分のほぅが多いことはたしかで、この事実からだけでも、私たちがお金と信仰をつなげていることを理解しなくてはならない。お金との最も賢い関係とは、「信ずる心」が人生に引き寄せてくることのできる物質として、お金を見ることだ。

  お金よりも「信ずる心」を優先させることは、お金の役割を、「主」から、よりふさわしい地位といえる「召し使い」へと降格させる。お金を超越して何かを信じる心があれば、金銭的な心配をせずに、自分の直観による啓示に従う自由が与えられるのだ。もちろん、この物質世界の一部であるかぎり、債務や支払いなどのルールは守らねばならないし、お金とも常識的な関係を保つことは必要だが、ただそれだけのことで、それ以上のものではないのだ。
  このような信心をもちはじめること自体、すでに霊的な意味での成熟のしるしといえる。霊的に成熟した人間は、ある啓示に従って行動することもあるが、お金をまず第一に考える人にとっては、それはばからしいことに思えるだろう。
  霊的な神話によく登場するのは、天が信心をもつ人に接触し、ある指示を与え、それを遂行できるように、日々「天からの食物(マナ)」を与える、という話だ。天からいただく食物の一部には、金銭的なエネルギーも含まれる。私の知るかぎり、霊に関する書物のどこを探しても、神からの啓示に従ったことを後悔したという人間の話は出てこない。

  第4のチャクラは、「自分の手を離し、神にすべてをまかせる」ことができるかどうかを決定する。その気を使うと、私たちは感情面での難題を、神なる計画の一部として受け入れることができる。その計画の意図とは、私たちの意識の進化である。感情的な痛みを手放し、過去の出来事がなぜあのように起きたのかを追求しないようになると、私たちはやすらぎの状態に到達できる。しかし、この内面のやすらぎを達成するには、許しの気を体現し、人間が勝手に決める、より低次元の正義の意識を手放さなければならない。

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 一生かけて愛の力を学ぶ

  愛はあまりにも強い力をもつため、私たちはいくつかの段階を経て、徐々にそれを知っていくようになっている。各段階は、さまざまな愛のかたちとその力について学ぶ機会を提供する。許し、慈しみ、寛容、親切、自分や人を大切にする気持ちなどだ。そして、私たちは各チャクラの構成に沿って、これらの段階を踏んでいく。
  まず最初は第1チャクラ、つまり同族のなかで愛を学ぶ。家族のひとりひとりから、さまざまなかたちで表現された愛のエネルギーを吸収する。同族による愛は無条件なこともあるが、ふつうは集団への忠誠と支持への期待を伝えてくる。同族的な環境では、愛は自分と同類の人たちと分かち合うエネルギーなのだ。
  第2チャクラが目覚め、友情の絆を学ぶにつれて、愛は成長して、「部外者」もその対象に含まれるようになる。血のつながっていない人に分け与えたり、その人を大切にすることを通して愛を表現するのだ。
  次に第3チャクラが目覚めると、外的なものや、自分の個人的なもの、身体的なもの、物質的なものへの愛を発見する。たとえば、運動や学問、ファッション、異性との交際、職業や家庭、そして身体への愛などがあげられる。

 「傷ついた子供」からぬけ出すことがつぎの一歩

  「自分を愛せなければ、誰も愛することはできない」という言葉はよく耳にする。だが、自分を愛するということは、多くの人にとって、いまだあいまいな概念のままであり、単にそれを物質的なかたちで行動に移すだけであることが多い。つまり、ショッピングに狂ったり、ぜいたくな休日をすごしたりというかたちだ。自分へのごほうびに旅行したり、何か「おもちや」を与えるのは、第3チャクラの愛であり、自分への感謝を表すのに物質的な快楽を使っている。
  このようなごほうびはたしかに楽しい。しかしそれは、私たちの健康に影響するような、人間関係、仕事など、何か問題を抱えた状況を見直す必要があるときにおとずれる、深い心の揺らぎを感じとる妨げとなることもある。
  第4チャクラでの「自分を愛する」という課題は、心から響いてくる感情のメッセージと、霊からの指示に耳を傾ける勇気を持つということだ。癒しのために心が最も頻繁に私たちを導いていく対象の元型は「傷ついた子供」というものだ。
  内なる「傷ついた子供」には、傷つけられたり、発育を妨げられた小さいころの感情や、苦痛に満ちた記憶、相手の否定的な態度、それに機能不全を起こしている自画像などのパターンが隠されている。そして、違うかたちかもしれないが、大人になっても知らず知らずのうちにこのようなパターンにはまって生きていることもある。
  たとえば、子供のころの捨てられるという恐怖は、嫉妬にかたちを変える。性的な虐待はセクシュアリティの機能不全となり、自分自身の子供に同じ行為を繰り返す原因となる。子供が否定的な自画像をもつと、のちにそれは拒食症、肥満、アルコール中毒やその他の中毒症を起こしたり、失敗の恐怖に取りつかれたりする。
  これらのパターンは、人との関係や仕事、あるいは個人的な生活に大きな損傷を与え、さらに健康に害をおよぼすこともある。自分を愛するためには、自己の内面にあるこの元型の力に立ち向かい、私たちを支配する「傷ついた子供」を心のなかの権威の座から引きずりおろさなければならない。癒されないままだと、傷はいつまでも私たちを過去に生きるように仕向ける。

  癒しは許すという行為を通じて可能になる。
  愛が持つ癒しの力に自分を百パーセント開いていくためには、「許し」こそが最初に起きなければならない不可欠の霊的行為なのである。自分を愛する心とは、過去の傷をもたらした人びとを許せるほどに自分を大切にすることなのだ。

  第5チャクラは、「自分の霊と意志の力をあきらめ、神の意志に従う」というチャレンジを体現している。霊的な視点から見ると、もっとも次元の高い目標とは、個人の意志を完全に手放し、それを「神なる存在の手」に委ねるということだ。

  恐れがもたらすもの

  最も代償の大きいのは、恐れによる行動がもたらす気的な結果だ。恐れからなされた選択は、たとえ自分の望むものへとつながったとしても、同時に望ましくない副作用がもたらされることが多い。この予期しなかった結果は、恐れが神なる存在からの導きに対する信頼にそむくものであることを教えている。
  私たちはみな、少なくとも時折は、人生をコントロールしているのは自分だという幻影のなかに生きることがある。お金や社会的地位を求めるのは、選択肢が広がることによって得られる大きな力のためであり、ほかの人間が決めてしまう選択に従う必要がないようにするためである。高次の意識は、個人の意志を神なるものの意志に委ねることを要求するという考えは、私たちが「力ある人間」の姿と考えているイメージすべてと正反対のものだ。
  このため、私たちは、恐れ――驚き――恐れ――驚き、というサイクルを繰り返す状態に陥ることがある。それは心が祈りの状態に到達し、「選ぶのはあなたで、私はそれに従います」と言えるようになるまで続くかもしれない。この祈りを捧げると、人生に導きがおとずれる。同時に、数限りない共時性や、偶然と思える出来事が続くことになる。神なる存在がお得意の「干渉」だ。

 何を信じるかで人は変わる

  第5チャクラの中核を成すのは「信ずる心」である。誰かを信じると、自分の気の一部がその人のために確保される。ある考えを信じると、その考えに気が向かう。何かに対する恐れを信じると、気の一部がその恐れに与えられてしまうのだ。気を与えることによって、私たちの知性、心、それに人生全体が、気を与えた対象のもたらす結果の一部に織りなされる。信ずる心、それに選択の力とは、まさに創造する力そのものだ。人生では、私たちはエネルギーが物質に変換されるための媒体なのだ。
  このため、人生に必ず隠されている霊的なテストは、選択の陰にある自分の動機を見つけ出すこと、そして自分がはたして恐れを信ずるのか、それとも神なる存在を信ずるのかを発見することだ。それが霊的な思索の結果でも、病気がもたらした結果だったとしても、誰もがこのことについて考えていかなくてはならない。
  いったい誰が自分の人生をコントロールしているのか? なぜ人生は自分の思いどおりにいかないのか? こう問いかけるときが誰にもおとずれる。どんなに成功を収めていたとしても、いつかは自分が不完全であると感じていることに気づくときがやってくるのだ。予期せぬ出来事や人間関係、あるいは病気が、危機を乗り越えるのに自分の力だけでは不充分なことをまざまざと見せつけてくれる。私たちは、自分の力は限られているということに気づくようになっているのだ。そして、ひょっとすると人生には何かほかの「力」がはたらいているのだろうかと考え、さまざまな問いを発するようになっているのである。
  いったい何が起きているのか? 自分にどうしろというのか? 何をすればいいのか?自分の目的とは何なのか?
  自分の限界に気づくと、もし気づかずにすんでいれば、しなかったような選択の可能性を考えるようになる。人生がどうしてもうまくいかないとき、それまではけっして受けいれようとはしなかった啓示にも心を開くようになることもあるだろう。そうすると、人生はまったく予期しない方向に向かっていく可能性がある。そして最後はこうなる場合も多い――「まさかここに住んでこんなことをするなんて、夢にも思わなかったけれど、なぜかそうなって、すべてうまくいっている」
  このような、すべてを委ねる状態に到達するには、象徴的な見方を使い、人生は単なる霊の旅であると見ることが役だつかもしれない。切迫した状況から回復したのは神なるものにすべてをまかせたおかげだと語る人を、誰でもひとりやふたりは知っているだろう。そういう人は、ひとりの例外もなく、必ず神なる存在にこう言っているはずだ。「私の意志ではなく、あなたの意志にすべてを委ねます」と。この祈りを唱えるだけでいいならば、私たちはなぜそれをこんなにも恐れているのだろうか。
  自分の意志をさらに偉大な意志へと委ね、神なるものの意志の存在を認めると、物質的な快適さをもたらすあらゆるものと切り離されてしまうのではないか……。私たちはこのことをずっと恐れているのだ。だから自分の意志を神なるものの意志に対抗させようと頑張るのである。啓示を招き入れながら、それを完全に妨げようとする。このジレンマに陥っている人を、私はワークショップの参加者に繰り返し見てきている。直観の啓示を求めながらも、その声が何を言うか恐れているのだ。
  自分の物質的な生活と霊の道はひとつであり、同じものであることを忘れないでほしい。物質界での楽しみを得ることも、健康な身体をつくることと同じように、霊的な目標なのだ。どちらも、どういう生き方をするかを選択し、信ずる心と信頼に基づいて行動することを選択する際に、神なる存在の導きに従った結果なのである。神なる存在の権威にすべてを委ねるということは、物質界の幻像から自由になることを意味するのであって、物質界のよろこびと快適さから切り離されることではない。
  第5チャクラの霊的な気は、私たちをこの「委ねる」というところまで導いてくれる。最も偉大な愛の行為は、人や自分への審判を下すのをおさえることである場合もある。審判を下すのは、霊的に見ると誤りだと私たちは繰り返し思い知らされる。強い意志をもつように自分を律することで、まわりの人たちや自分に対して悪い思考を向けるのをおさえることができる。価値判断を避けることで、私たちは叡智を手にし、恐れを打ち負かせるのだ。

  懺悔という行為は、自分の選択のもたらす結果から私たちの霊呼び戻してくれる。気の存在としての本質をさらに学んでいくにつれて、私たちは自分の霊がいかに過去や現在の悪い出来事や思考などに取り込まれているかに気づく。
  懺悔は、間違った行ないを公に認めるだけではない。気の観点から見ると、それまで自分の霊を支配していた恐れに気づいたこと、そしてその恐れを越える力を得たことを認識する行為なのである。象徴的には、懺悔は過去の恐れや否定的な思考のパターンから私たちを解放してくれる。悪い出来事や信念に取りつかれたままでいることは、心にも、霊にも、細胞組織にも、そして生命そのものに対しても毒性をもつのだ。
  業(カルマ)とは、私たちの選択がもたらす気的、身体的な結果である。悪い方向に向かうような選択をすると、良い方向に向かう選択をするにはどうしたらいいかを教えるための状況が繰り返し引き起こされる。学ぶべきことを学び、良い選択をすると、その状況はもう起きない。それは、私たちの霊が、もはやその学びを生ずる原因となった悪い選択に取り込まれていないからだ。
  西欧の文化では、このような業についてのレッスンは、「すべてはまわりまわって自分のところにやってくる」とか、「償いなしにすむことは何もない」といった社会の格言に言い表されている。懺悔の行為は、自分のつくり出したものに対する責任を認め、自分の選択の誤りに気づくことなのである。

  「人生での成功とは何か特定の目標の達成」だと信じるあらゆる価値観から、自分を切り離す。かわりに、「成功した人生とは、自己をコントロールし、人生のさまざまな難題に対処できるようになる過程だ」と見るようにする。成功を物理的なものではなく、気の力のもつ勢いとして思い描く。

  内面の啓示に従って行動し、その啓示が「本物」である証明を要求しない。証明を求めれば求めるほど、それを実際に得られる可能性は減っていくだろう。

  意識をすべて、いまという瞬間に向ける。過去に生きたり、将来のことを心配することはやめる。実際に見えるものよりも、見えないもののほうを信頼することを学ぶ。

  聖なる真理――第7チャクラの気は、すべてにおいて、神なる存在との親密なつながりを求めるよう私たちをつき動かしていく。このつながりをもちたいという霊的な欲求は、宗教への帰属を求めるのとはかなり異質のものだ。
  まず第一に、宗教とは集団の体験である。おもな目的は、その集団を守ることであり、それも病気、貧困、死、社会的危機、あるいは戦争などの、基本的に物理的な脅威から守るということだ。宗教は第1チャクラに根ざしている。
  これに対し、霊性は、あくまでも個人の体験であり、物質的な世界の恐れを手放して、神なる存在との関係を求めていくことだ。このチャクラの聖なる真理とは、「いまという瞬間に生きよ」というものである

         
7つのチャクラ
魂を生きる階段
キャロライン・メイス・著  川瀬勝・訳  サンマーク文庫



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