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zoom RSS あらゆる感情は味わい尽す必要があって起きてくるもの〜強烈な感情を安らかなものにするために…

<<   作成日時 : 2014/04/07 01:16   >>

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転載元zeraniumのブログさんより

あらゆる感情は味わい尽す必要があって起きてくるもの@

私はあるスピリチュアルな指導をする師のワークに参加していました。

その中である1人の参加者が次のように尋ねたのです。「強烈な感情が出て来たときにはどうすればいいのですか? そうした状態を安らかなものにするにはどうすればいいのでしょうか?

師は答えて言いました。
ただ、動かずにいること、逃げ出さないことです。その感情をそのまますべて感じるようにしなさい。それを歓迎するのです。それから逃げ出してはいけない。冷蔵庫に走って行って、その感情を紛らわそうとして何かを食べてはいけない。気を逸らそうとしてテレビのスイッチを入れてはいけない。その感情を誰かに受け止めてもらおうとして、友人や知人に電話し、そのことをゴシップのように話してはいけない。

ただ立ち止まって、その感情を感じるのです。
そこから動かないでその感情とともにいなさい。そこから逃げ出そうとして気を逸らしたり、押しやったり無視したり、あるいは居心地の悪さを誰かにぶつけたり話したりせず、あなたが本当にその感情とともにとどまるならば、その感情の核心には実は安らぎがあることを見出すでしょう。強烈な感情が湧きあがってくるのを感じた時は、ただ感じるままにすることです』

たいていの自己啓発セミナーなどでは、意図的に思考を変え、身体の動きを変え、その感情的苦痛を避けられるなら何でもしなさいと指導します。そうした考え方が、不愉快な感情を鈍らせるために向精神薬の処方を医師に求め、医者もそのように考えているのです。出てくる感情から逃れられるなら、感じないでいられるのなら何でもし、まるで「何も感じていない」かのように、感情を無視して行動するようにというのです。

しかしその師は、それとはまったく違うことを言いました。
動いてはいけない。しっかりその感情とともにいなさい」 なんと新しい考え方なのでしょうか。私は自分の中の何かが揺り動かされるのを感じました。もし師の言うことが正しくて、私がそれを歓迎し、そうした感情の核心にあるというその安らぎを感じることができたらどうでしょうか?

そこで私は試してみることにしたのです。
実は私は昨年の子宮がん早期発見の検診により、前ガン症状があるという結果が出ており、5段階評価では3だと診断されていました。そのため腹部はメロンを入れたように膨らんでいたのです。こうした状態で試してみても失うものは何もありません。そして私には、長い間解決していないある感情的問題がありました。他人の精神的指導に関わっていながら、それに直面して解決しなければいけないことはわかっていました。

その問題というのは、私は何かに駆り立てられるように「人の手助けや人に奉仕をしなければ気が済まない」というものでした。その衝動は自分の健康を犠牲にしてまでも私を駆り立てるので、決して断ることができませんでした。私のこれまでの人生はすべて、他人に与えて奉仕し手助けして世話することであり、そのようにして自分のベストを尽くして他人から認めてもらい、愛や賞賛を受け取るという見返りを得ていたのです。私はそのために自分のニーズを犠牲にし、望みや目標を犠牲にし健康を犠牲にしてまで、そこに自己価値を見出していたのです。

私は、あの師の言った「感情に直面したなら、そこから動くことなく歓迎しなさい」、ということをただ行なおうと思いました。私は椅子に座り続けました。しばらくすると汗が噴き出し、自分が助けを求める人から電話が来てもそれを取らないという自分の決心に、心臓がドキドキしました。私の思いは、助けてくれる人々へと動き回りました。

するとその時、ある疑問が湧いてきました。
もし私が誰にも奉仕せず、するべき奉仕もなく、奉仕を必要とする人もいないとすれば、私はいったい何なのだろうか?」 心がかき乱され、「そこには誰もいない」ことになるという思いに、圧倒されるほどの恐怖心を感じました。でも私はその怖れに真っ直ぐ直面するようにしました。それから逃げず、必要であれば圧倒されてしまうのです。それでも、「それを歓迎し、動いてはいけない」という師の教えに従い続けるのです。

私は椅子の両脇をつかみ、その怖れのエネルギーを全て感じようとし、手は汗をかき、身体にも汗が流れていました。こうして恐れを歓迎しているうちに、どんどん内側へと入り始めました。すると淋しさの中へ入って行きました。その淋しさはあまりにも深く、まるで私を包む部屋全体が淋しがっているかのように感じられたのです。椅子や壁からも淋しさが感じられ、その根源的な淋しさで部屋中の分子が震えていました。すべてが淋しさで埋め尽くされていたのです。

「私はどんな感情が出てきても逃げない。ただそれとともにいてそれを感じ、その核心へと運ばれていくのに任せる」、という決心を守り通しました。私はかつてこのような淋しさを知りませんでした。しかしそれがどれほど胸の痛むものであろうとも、それでも動かなかったのです。

しばらくすると私は、淋しさから別の感情の「層」へと入っていきました。
そこは絶望の淵であり、それはあまりにも深く、人がこれほど希望を失った状態になれるとは知りませんでした。それは、「奉仕することもなく、される人もいないのなら、生きていることに何の意味があるのだろう。何のために生きなくてはいけないのだろう」というあきらめであり、荷物を全て処分していつ死んでもいいという感覚でした。私はこれまで、このように圧倒される痛みと完全な絶望感、無力感が、1つになった状態を体験したことはなかったのでした。絶望がありとあらゆるところにあり、避けることは不可能でした。

まさにその絶望感が私を圧倒し、押し潰そうとしたその瞬間、自分がまた別の「層」に落ちていくのを感じました。そこは何か底知れない、深い淵のほとりに立っているようでした。その淵はブラックホールのようで、まったくのでした。私は恐怖に慄(おのの)き、むかつくような冷や汗をかき始め、その中に入ったなら死んでしまうと感じました。

私は凍りつき、完全にそこで立ち往生してしまい、抵抗しました。
こんな滅亡の暗闇に入って行かなければならないのなら、師が何と言ったとしても、もうこれを続けるのはいやでした。私は心の中で、「死」と確信しているものを前に立ちすくみました。それは少なくとも、私ブランドンとして知っている人物の死の淵だったのです。その恐怖は私に覆いかぶさり、目には急に涙があふれ、椅子をつかむ手には力が入りました。その黒い虚空の中にあるものが何であろうとも、それに直面することがどうしてもできなかったのです。

私はその恐怖心で疲れ果ててしまい、それでも自分で決めたことを守り続けました。
私はそこで行き詰ってしまい、そのブラックホールの中に身を任せることも、またそうする意志もなく、しかし自分の決心を破るつもりもなく、ただ恐怖に凍りつき、それでも私は「動かなかった」のです。時が過ぎ、ある疑問が湧いてきました。「もし私がこの場所を決して動かず、このまま立ち往生していたらどうなるのだろう?」

その瞬間、何かが起きたのです。
まるで意志の力が屈服したかのように、私は身をゆだねたのでした。自分がどんどん落ちて行くのを感じました。無の中をどんどん落ちていき、しかも言葉では表しきれないほどの安らぎ中へ落ちていったのです。部屋中に安らぎが満ち溢れていました。私は安らぎであり、言い知れない愛と安らぎが部屋中を埋め尽くしているようでした。私は空中に踊る分子であり、同時にその空間のすべてでした。

部屋中が輝く安らぎできらきらと光っているようでした。
そして同時に私には、この根源的な安らぎが単なる瞬間的なものではなく、また私の外に存在するものでもないとわかりました。それはまさに私そのものだったのです。つまり、私は私自身の魂の中へと落ちていったのでした。そこには境界も何の束縛もなく、永遠であり時を越えていると感じました。まるで自分が宇宙へ広がり、すべての生命が私の中で起きていると感じたのです。自分は純粋意識の存在であり、絶対的な自由と限りない愛であるとわかりました。

  愛というものは
  難解な議論によってわかるものではない。
  その愛の扉は、実は打ちひしがれるような衝撃なのだ。

  鳥たちは空に大きく弧を描いて自由に飛ぶ。
  彼らはどうやってそれを学んだのだろう?
      
  鳥たちは落ち、どんどん落ちながら、
  そのとき、羽を与えられたのだ。
                  スーフィー教の詩人 カビール


   
 book 『ジャーニー』 ブランドン・ベイズ著 ナチュラルスピリット

             抜粋   

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